■はじめに―批評の自由

 リヒャルト・ワーグナーという音楽家がいます。彼は反ユダヤ主義者でした。彼の反ユダヤ主義と北欧神話に基づくゲルマン民族主義に彩られた音楽は、ナチスドイツに利用された。その結果、戦後成立したイスラエルではワーグナー音楽はタブーとなりました。そのタブーを1981年にインド人指揮者ズビン・メータが、2001年にはダニエル・バレンボイムが打ち破った。もちろんその時は賛成派、反対派双方の激しい応酬がありました。このワーグナーの音楽をどう思いますか?
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 音楽、文学、そして芸術一般をどう解釈するか。これは難しい問題です。いろいろな批評が有りうる。しかし「批評の自由」が前提となって初めて、豊かな理 解や批判が生み出される。そうでなければスターリン主義によって「社会主義リアリズム」に画一されたソ連芸術や「頽廃芸術展」によってナチスに規制を受け たドイツ芸術のような事になってしまうでしょう。この事をまず確認しておきたいと思います。

■作家と作品の関係について


 文学作品を読むとき、映画を観るとき、そこに何を読み取るべきなのでしょうか? 作家をまず見て、その人の思想調査をし、しかる後に作品を「その作家の思想の発現」として理解するべきなのでしょうか? 私はまったくそうは思いません。作家が自分の作品にどの程度「自分の思想を盛り込むか」は未知数です。

 作品は「作家の私有物」でもありません。例えばそれが「論文」なら「作者の思想の反映」であり「作者の私有物」といっていい。しかし「文学」という虚構の芸術なのであってみれば、そこにはいくつもの解釈がなりたつのであり、ひとたび出版されたならば、それは読者諸氏によってさまざまな批評を加えられ、そうした批評の力によって新しいひとつの「作品」として完成してゆくのだ、と考えています。だから私は作家が何者であるかにかかわらず、まず作品そのものを偏見なく読むことから出発するべきだと考えています。

■故児玉清氏推薦がきっかけ


 この作品に最初に出会ったのは3年前でした。NHKで「週刊読書レビュー」という番組があり、毎週そこでいろいろな本が紹介されます。故児玉清さんがここで本を紹介してゆくのですが、たまたま私が見た時に児玉さんが『永遠のゼロ』を読んで泣いた、というので興味をそそられたわけです。はたして書店に行ってみると平積みで、帯に児玉清氏推薦の言葉が書いてありました。そこで買って読んだので、百田氏についてはまったく予備知識もなく、「ゼロとは零戦のことらしい」というのは読んで初めて知ったくらいでした。つまり、まったく作者について何の偏見もなく読むことができたわけです。 「作者は右翼だから作品も胡散臭い」、あるいは逆に「作者は左翼だから良い作品に違いない」という偏見は捨てるべきです。それをいくつかの他の作品との比較で論じてみたいと思います。

■戦争と『風の谷のナウシカ』naucica

 『風の谷のナウシカ』はご存じのとおり、宮崎駿の初期の代表作で、私も何度も観に行きました。いい作品ですね。ではどこがいいのでしょう? 何が私たちを感動させるのでしょう? これは架空の物語ですが、我々の多くが、核戦争による世界滅亡後の人類の物語というように翻訳して観たのではないでしょうか。つまりまったく架空ではなく、「どこか我々の世界に通じている」事を実感していた。

 毒気をまき散らす「腐海」はまるで放射能汚染地帯のようです。その架空の「未来世界」で軍事大国「ドルメキア王国」が風の谷に侵略してくる。軍事力による戦争世界で、ナウシカは、「腐海」の秘密を知り、死を賭して戦争を止め、王蟲の怒りを鎮める。… ここには大きな「戦争史観」=「戦争についての作者のメッセージ」が横たわっています。軍事力による世界分割戦争は結局自らをも亡ぼすのだという主張が、作品全体を俯瞰して存在しています。その中でナウシカが見せるのは敵味方を超越した「人類愛」どころか、王蟲をも含んだ生物世界全体への愛情です。これが私たちを感動させる。

■司馬遼太郎の『坂の上の雲』
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 司馬遼太郎の時代小説はとても面白く、わたしもずいぶん読みました。その彼の『坂の上の雲』も、それぞれの登場人物の描写は見事で、非常に引きつけられます。また秋山兄弟、正岡子規、夏目漱石など、有名人が数多登場します。魅力的な人物描写によって、司馬作品は大きな説得力を持って読者に迫ってきます。そのような豊かな描写力によって魅力ある作品を書く実力を持った作家が敵に回ったら本当に怖い。

 『坂の上の雲』はまさにそれを証明する作品と言えます。作品はふんだんな資料をもとにこの戦争を細部にわたって描写しています。海戦などは、それぞれの軍艦の位置や行動を何枚もの図を使って正確に、詳細に再現しています。そして清国軍やロシア軍と比較して日本軍の装備や作戦行動の長所・短所を指摘しながら戦争が進んでいく。しかしこうした詳細な資料による物語の進行の裏には実に巧妙に戦争賛美のメッセージが仕込まれている。

■「戦争賛美」とは?その意味

 戦争を賛美するにはどうしても必要な条件が2つあります。
(1)愛する祖国を防衛するための正義の戦争だ=「聖戦思想」
(2)人権やいのちよりも国家防衛の方が大切だ=「国家主義」

 (1)と(2)は連携しています。戦争を賛美するためには、その戦争は「侵略ではなく防衛」でなければならない。また「祖国愛」はひとりひとりの人権やいのちよりも気高い概念であり、国家のために国民は犠牲となってあたりまえ。そしてそのような犠牲は英雄的行為として賛美される。司馬遼太郎は、まさに戦争の「目的」という根幹的な部分において日清・日露戦争を「国家防衛の正義の戦争」と位置付けているのです。

 当時の日本は産業発展と経済拡大によって世界の帝国主義諸国の一員となることを目指していました。だから周辺諸国への侵略は予定行動であり「国家の意志」であった。江華島事件から、日清・日露戦争、韓国併合に至る一連の軍事行動は帝国主義への成長過程の一部でありました。また日清・日露開戦の契機そのものも、日本側の積極的な挑発があった事は歴史的に明らかです。それを「防衛戦争」と言いくるめ、そのために戦った青年たちを英雄に仕立て上げる。まさしくこの「歴史全体を高所から俯瞰する」位置において、この小説は「戦争賛美」作品であると言えます。

■現場の視点でつづる戦争

 考察したふたつの映画・小説は、その物語全体を俯瞰する位置において対立するものでした。1つは博愛主義的観点から、もうひとつは国家主義的観点から、それぞれ戦争を俯瞰し、一方はそれを否定し、一方は肯定しています。そしてそれぞれ全く相反する目的のための「自己犠牲」が描かれている。私は前者には涙するが、後者には怒りを覚えます。nobi

 ではそのような「全体を見通した俯瞰的メッセージ」が、小説や映画にはかならず必要なのでしょうか? そんな事はありません。末端の現場で兵士や庶民が体験した事をつづるだけでも戦争についての強いメッセージとすることができます。例えば大岡昇平の『野火』。私は若い時にこれを読んで非常にショックを覚えました。人間を生き地獄に突き落とす戦争の姿にぞっとしました。そのことだけで十分に説得力のある反戦のメッセージとする事ができることをこの小説は物語っています。だから『野火』は優れた反戦小説と言えると思います。

■映画『ビルマの竪琴』について

 この映画も又、現場・末端の兵士たちの視点で戦争の姿をとらえた作品です。もともと小中学生のために書かれた児童文学で二度映画化されています。ビルマ戦線に派遣された軍のある小隊の話です。この小隊長は学徒出陣組でしょう。戦争末期に学生の兵役免除が取り消されたため、多くの学生が「幹部候補生」として志願しました。私の父もそうでしたが、学生は知識と学習能力が優れていると見なされ、幹部候補生として曹長、少尉くらいの地位にまで短期促成で出世させ、「見習士官」とか「予備士官」と呼ばれ、現場の指揮官として戦場に投入した。

 この小隊長は音楽学校を出ていて、兵たちに歌を教えます。その中の「羽生の宿」などがイギリス人にもなじみ深い歌であることから歌を通じて敵味方同士が心を通じ合わせ、平和的に降伏することができます。やがて捕虜の中の水島上等兵が、異国の地で死んでいった多数の戦友たちをそのままにして帰れない、遺骨を弔っていかなくてはならないと思い詰める。そういう物語でした。

■戦友たちの死と生き残った自分tategoto

 ここに登場するのは「普通の」兵士たちです。命令があれば敵兵(イギリス兵)と戦う、何の「反戦思想」も持たない普通の兵士です。しかしそんな兵士たちの中で水島が固めた決意は、実は当時の多くの日本軍兵士の胸に刻まれていた想いだったのではないでしょうか。

 多くの戦友たちが死に、そのまま白骨化して山野に散らばっている。しかし自分は生き残ってしまった。その後ろめたさというか、罪悪感のようなものを当時の人々が背負っていたのではないでしょうか。私の父がそうでした。古い集合写真を見ながら「こいつも死んだ、こいつも、こいつも…」とつぶやいている姿は悲しげでした。しかし、そのように死んでいった仲間を悼む気持ちは、それだけでは何の思想性もありません。仲間の死を悼むあまり、それを「神」としてヤスクニに祀りあげることでそれらの「死」に「意味」をもたせるのか、それともその哀悼の気持ちから「不戦の誓い」を立てるのか。それによって道はわかれます。

■観客によって反戦映画となった

 児童文学『ビルマの竪琴』が発表されたのが1947~48年。映画化が56年です。まだ戦争の記憶が日本中に生々しく残っていた時代です。この映画は作者の側も「反戦映画」と意識していたし、多くの観客がそのように受け取っていった。だから、戦争についての明確な善悪のメッセージもなく、「戦友の死を悼む」気持ちの先にあるものを掘りさげていないにもかかわらず、水島上等兵への共感と共に明確に「反戦映画」として受け入れられ、空前のヒットをしたわけです。「あの映画の中の水島上等兵は自分だ」。そう思う多くの観客がこの映画を「反戦映画」へと育てていったと言えます。

 現代の私たちの目から見れば、不完全なところはいっぱいある映画です。いま述べたように「死者を悼む」気持ちの「両義性」をはらむ曖昧さもそうですが、そもそも他国を侵略し軍靴で踏みにじったのに、自分の国の兵士だけを弔うのはどういうわけか。迷惑を被ったビルマ側の事情を何も考慮していないではないか。そういう批判も今ならできる。日本の侵略戦争に対してアジア諸国の人々が告発を始めている現在からみれば、そういう視点の欠落は指摘できます。しかし、50年代当時ではできなかったのでしょう。それでもこの時代、日本人が反戦の決意を固めてゆく上でこの映画が大きく貢献した事は否定できません。

■零戦へのオマージュとして

 さて、『永遠のゼロ』です。作者は零戦が大好きなのでしょう。同じ零戦でも21型、32型、52型などいろいろな型の零戦を地域や年代ごとに塗装を変えて登場させるほどのマニアックぶりです。あるいはレシプロ機へのあこがれでしょうか。それなら百田氏だけでなく、宮崎駿にも見られる傾向です。『紅の豚』、『ナウシカ』、『ラピュタ』、『風立ちぬ』などの作品にもそれが見られます。

 零戦は当時の日本の工業技術水準からは考えられないほどの高性能な戦闘機でした。米国や欧州のどこの航空機よりも速度、運動性能、上昇速度に優れ、航続距離などは当時の常識の数倍という驚異的な距離を誇るものでした。だからこれに多くの人が魅かれるのは当然です。しかし、それは戦闘機として作られた。だから戦争と切り離して語ることはできません。中国戦線で最初に登場した時から敗戦時の特攻に至るまで、作者はこの零戦に「宮部久蔵」という、ある意味では「理想のパイロット」を搭乗させ、それによって零戦への挽歌を捧げたのだ、と思う。

■おじいさんのものがたり

 この物語は、若い姉と弟が特攻で死んだ自分の「本当の祖父」のことを調べ始めるところから始まります。26歳の青年・佐伯健太郎は祖母が亡くなった日、祖父から実は血の繋がった本当の祖父がいた、と聞かされる。姉弟は生き残りの祖父の戦友たちを探し回って祖父・宮部久蔵のことを尋ねます。ところがどの人もみな久蔵を「腰ぬけ」「臆病者」「命を惜しむ奴」とさんざんののしる。しかしそれでも何人もの人に聞いてゆくうちにやがて全く違った意見を持った戦友に出会う。

 宮部は結婚したばかりで出征することになりました。その時妻と固く約束を交わした。「私は絶対に生きて帰ってきます。けがをしても、例え死んでも絶対に帰ってくる」。この約束が彼を無謀な戦闘から避けさせ、そして「臆病者」といわれる事になった。しかし久蔵は自分の命だけを惜しんだのではありません。同僚や部下たちにも「少しでも生き残る可能性があるなら希望を捨てるな」と言い続ける。その久蔵の言葉に従って困難の中を生き残った祖父の戦友に、健太郎は会うことになります。



■この作品の性格をどう見るか

 私は戦争を扱った映画・小説をいくつかのタイプにわけて論じました。まず物語全体を俯瞰する位置から戦争についてのメッセージを織り込んでいる作品として、「平和主義」の立場から『風の谷のナウシカ』、「国家主義」の立場から『坂の上の雲』を論評しました。次に、こうした高所からの俯瞰もメッセージもなく、現場の兵士の視点でつづった作品として『野火』と『ビルマの竪琴』を論評しました。この両作品とも、反戦思想など出てこないし、登場人物もみな命令で敵を殺す「帝国軍隊の兵士たち」ばかりです。それにもかかわらず、結果としてこれらの作品は戦争に対する嫌悪感、強い拒否意識を生み出す文学として人々に受け入れられ、またそのような批評によって、反戦文学となる事になりました。

 では『永遠のゼロ』は上記と比較してどう分類できるでしょうか? 現代と60年前とを往き来しながら進行してゆくドラマのどこにも全体を俯瞰する位置からの「戦争美化」のメッセージは出てきません。むしろ宮部久蔵とその周囲のパイロットたちの現場の視点で綴られた物語と言えるでしょう。その人々がどんなドラマを展開してゆくのか。それはどうぞ自分の目で見て、それから考えて欲しいと思います。

■宮部久蔵は国家主義者か?

 私は「戦争美化」の条件をふたつあげました。ひとつは「聖戦思想」です。当時の日本人の恐らく多くが帝国主義政府の宣伝に飲み込まれ、「鬼畜米英」への憎悪を燃やしていたことでしょう。またそうではない者も当時の言論統制と社会的風潮の中で政府の宣伝と強制に公然と反対する事はできなかった。そうした中で、宮部は「祖国防衛」だの「正義の戦い」だのとは一切言っていません。それどころか、この戦争に対する批判めいた言葉をいくつも残しています。映画では省略された部分もありますが、それでもいくらかは出てきます。戦争全体についてどう思っていたのかはまったく語っていません。
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 もうひとつの「戦争美化」の条件は「国家主義」です。国家のために個人の人権やいのちを犠牲にする。この「国家主義」に対しては、宮部は真っ向から対立する立場にありました。そしてこの映画全体を最後まで貫き通す「国家よりもいのちが大事」という宮部のメッセージがあるからこそ、最後の感動があるのです。ネタばらしはマナーに反するので言えませんが、宮部は国家よりも家族への愛情をはるかに大切にしていたのです。だから「腰抜け」と言われた。また戦友たちにも「絶対に生き残れ」と言い続けた。

■死んだ部下を擁護する宮部

 宮部が人のいのちをいかに大切にしていたかを物語るエピソードはいくつか出てきますが、その中でも死んだ部下を擁護するシーンは印象的です。戦争末期、宮部は教官となって後進を育てる任務についていました。その部下の一人が操縦に失敗して地面に激突して死んだ。上官の中尉は「精神が足りなかったからだ」「軍の風上にも置けない」と罵倒します。黙ってうなだれて聞いている部下たちの前で宮部は「伊藤は立派な男でした」と敢然と反論し、逆上した中尉によってめちゃくちゃに殴りつけられます。この時初めて、部下たちは宮部教官がただの腰抜けではなく、人のいのちを大切にし、部下たちの事を思っているのだと知ります。

 実は映画には出て来ないのですが、宮部が死んだアメリカ兵に示す態度も当時の日本軍の常識から外れています。宮部は米兵の胸ポケットに入っていた女性の写真を見てから、裏の文字を読み、もとのポケットに戻します。そしてそれをもう一度取り出そうとした仲間を殴りつける。宮部は、あの写真はこの米兵の妻だ、一緒に葬ってやりたいと言う。こうした、人の命を大切にする宮部のやさしさが最後に、逆説的ですが特攻志願へと彼を向かわせる事になります。

■宮部はなぜ特攻を志願したか

 宮部は個人の犠牲を強要する帝国主義軍隊の中で、それに逆らって人の命を優先させ続けてきました。しかし戦争末期、特攻戦術が採用されたために、自分が教えた若い学生パイロットたちが次々と死んでゆく。最初は操縦試験の「不合格」を出し続けることでそれを阻止していましたが、それも出来なくなる。この頃から宮部の態度がおかしくなっていきます。その理由は容易に分かります。「死ぬな、生き残れ」と言い続けてきた自分が、生き残るためではなく敵に体当たりするための操縦技術を教えている。そして「教官」という安全な地位にいて教え子たちを次々に死地へ向けて誘導し、体当たりを見届けて帰ってくるのです。これは宮部にとっては「地獄」にほかならない。

 私は『ビルマの竪琴』のところで「多くの戦友が死んでゆき、自分だけが生き残ってしまった」当時の兵士たちの気持ちについて指摘しました。宮部の場合はそれどころじゃない。もっと酷いものです。自分が手を下しているようなものですから。だから宮部が特攻に志願したのは、この苦悩から逃れるために死んで行こうと決意したからです。またそれは自分が志願すれば、少なくともひとりは一日だけでも生き延びるという選択でもあった。

■宮部はなぜ飛行機を交換したか

 この「戦友が死に、自分だけは生き残る」かもしれないという「試練」は、特攻機に搭乗した瞬間にもう一度、久蔵の前に現れます。それは「エンジン音」です。彼は非常に耳が鋭く、整備士さえ聴き逃すようなちょっとした音の違いからエンジンの不調を見抜く。映画ではちょっとだけしか出てないので見逃すかもしれませんが、これが最後の出撃の時に重要な鍵となります。最新型の零戦52型に搭乗した久蔵は、すぐに部下のひとりに「飛行機を交換してくれ」と申し出ます。果たして部下が乗った52型はやがてエンジン不調のため不時着し、彼は生き残ることになる。

 宮部にはこの事が分かっていた。だから自分の命を助けてくれたことのある部下にこの飛行機を譲ったのです。もしそうしなかったら、おそらく宮部は一生後悔し続けたことでしょう。明らかに故障すると分かっている飛行機に搭乗し、まんまと自分だけ生き残る事になるからです。この宮部の特攻志願と飛行機交換とが最後の感動へとつながる。

 およそこんな内容です。最初に述べたように「いろいろな批評」がありうる。また「批評の自由」があって初めてゆたかな評価と批判とが可能となります。この映画をどう解釈しどう評価するかはそれぞれ違っていていいと思います。私は感動的な映画として評価します。大事なことは「自分で見て評価する」ことじゃないでしょうか。また、ぜひとも「本で読む」ことをお薦めします。

■映画には出てこなかった事

 死んだ米兵へのやさしさもそうですが、おそらく時間的制約によって省略されたエピソードがいくつかあります。例えば宮部久蔵はプロに匹敵する囲碁の名手であった事です。それでその評判を聞いた上級の将校たちと囲碁を打つ。この中でも痛快なエピソードが綴られています。映画では宮部は戦争が終わったら何がやりたいか聞かれて黙っていましたが、小説を読めば碁打ちになる事を決意していた事がわかります。戦争との関係で言えば、将棋は戦術の遊び、囲碁は戦略の遊びと言われます。宮部は将棋しかできなかった山本五十六について「囲碁を知っていればあんな戦争はしなかっただろう」と語ります。日本軍には「戦略思想」が無かった。

 それから、健太郎の祖母が亡くなったときに祖父が激しく号泣するシーンが出てきます。これには理由があるのですが、映画では解き明かされません。本を読まなければわからない。作者の百田尚樹は右がかった思想の持ち主のようですが、長年のテレビ業界の仕事経験から、自分の思想を盛り込んだらヒットしないだろうと分かっていたんじゃないでしょうか。だから思想的主張は抑えたのだと思います。この映画を貫く最大のテーマは国家主義でも聖戦思想でもなく「家族への愛」です。戦争という究極の逆境の中にあっても貫かれた夫婦の強いきずなに、読む人・観る人は感動するのです。

■余談ですが―安倍は何に感動したか

 安倍首相が感動したそうですが、いったい「何に」感動したのでしょうか? たいへん不思議です。おそらくこの映画が持っているメッセージ=「逆境を乗り越えた夫婦の愛のきずな」について分かっていないのではないかと思います。なぜならこの映画は、自民党が提唱する新憲法草案の趣旨とも対立する内容だからです。その対立軸とは「人権問題」です。自民党の新憲法草案には反動的な面がいろいろありますが、その根幹には「国家主義」が貫かれています。これまでの日本国憲法が保障する基本的人権を「天賦人権説」として退け、国家が認める範囲に限定するという立場が安倍自民党の新憲法草案の主柱です。つまり「人権よりも国家」。それは「国家よりも人のいのち」を優越させるこの映画のテーマと対立しているのです。
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 にもかかわらず安倍首相が感動したのだとすれば、戦闘機や戦車に乗ってはしゃぐミリタリーオタクで国家主義な首相が「国家のために戦闘をしている」シーンを喜んで観ているだけなのではないでしょうか? 空中戦のシーンはよく出来ています。しかし思想性はない。まぁゲームセンターでシューティングゲームに夢中になっている子どもとあまり違いがない。それからこの映画には海上自衛隊も協力したそうです。そうした情報、つまり「安倍首相が感動した」「作者は右翼的思想」「海上自衛隊も協力した」などの外殻的キーワードによって判断するのか、それとも内容を自分で観て判断するのか。本の読み方、映画の見方はそこが分かれ道だと思います。

■300万部突破の超ベストセラー

 私がこの本を購入した時にはまだ100万部も売れてなかったと思いますが、昨年12月2日には『オリコン2013年年間“本”ランキング』で文庫部門1位と発表され、12月9日には実売部数(発行部数ではなく)302万7000部と発表されました。300万突破は文庫部門では、というより漫画部門を除けば全部門で史上初めてです。また映画は公開2日で42万人が映画館に足を運び、1月5日までに累計で259万人がこの映画を観ております。国内映画ランキング(全国観客動員数)で3週連続第1位。2位がアニメの『ルパンvsコナン』、3位がハリウッド映画の『ゼロ・グラビティ』。

 この作品がこれほどの影響力を発揮したのはなぜでしょうか? 少なくとも多くの人々にとっては「馬鹿馬鹿しい退屈な作品」ではないからでしょう。では「世の中が右傾化しているから」でしょうか? 私はそうは思いません。キーワードは2つ。ひとつは「零戦へのオマージュ」であり、もうひとつは「夫婦の固い約束」です。しかし前者はどちらかと言えばマニアックな趣味的領域に過ぎません。鉄道マニアのそれと大差ない。戦場という殺伐とした現場が舞台であるにも関わらず、とりわけ後者の強い男女の愛情のきずなが人々に共感を呼び起こしているのだと思います。しかしそのようなテーマでは、「戦争賛美」とも「反戦」とも言えません。

■評価は読者・観客がくだす

 映画『ビルマの竪琴』についてわたしは「観客によって反戦映画となった」と書きました。この映画には戦死者に対する鎮魂の気持ちが強く表現されています。そのために一大決心をした水島上等兵への観客の共感がこの映画を大ヒットさせ「反戦映画」へと押し上げた。しかしもしも鎮魂の気持ちが「ヤスクニ」へと動員されていたら、この映画は「戦争賛美映画」とされたかも知れません。「日本軍将兵への鎮魂」に留まっていてアジア諸国への謝罪が表現されていない事からも、そうした可能性はあったと思います。しかしそうならなかったのは、やはり観客の圧倒的な反戦の気持ちからの共感が一定の評価を造り出したからです。

 ひるがえって『永遠のゼロ』も又、戦争についての評価が定まっている作品ではありません。私たちの間に議論が起こったように、観た人々がこれをどう評価するのかによって、感じ方も違ってくる。だからこの作品が「戦争美化映画」として定着するのか、それとも「反戦映画」として定着するのかは、読者・観客の評価次第です。そのような作品に対して「左翼」を自認する人々はどう対応するべきなのでしょうか?

■感動の内容を明らかにしてゆく

 作品をよく吟味せず、作者の思想性などの外的要素による偏見から自分の感情を前面に出して「馬鹿馬鹿しい、退屈だ」と逃げるのでは「大衆が感動・共感している」事実を解明する事はできません。大衆をそのように一方的に突き放すような態度は左翼がとるべき態度とは思われません。逆に、この作品がこれほどまでに大衆的に支持されている事実を分析し、感動・共感の理由を明らかにする事が、この映画を「反戦映画」へと発展させてゆくカギになると考えます。

 この作品が大衆的に共感をもたらしたキーワードは2つあると書きました。その後者である「どんな逆境にあっても絶対に生きて帰る」という約束こそが共感の源泉です。その約束を断ち切った「逆境」とはアジア侵略戦争とそれに続く太平洋戦争でした。その戦争犯罪者どもが戦争末期に採用した「特攻戦術」が宮部を妻と子から引き離したのです。「戦争」と「人のいのち」とが対立構造にあることはもう一つの場面でもはっきりと表現されています。それは操縦に失敗して死んだ部下を宮部が擁護し、それに逆上した上官が宮部を殴りつける場面です。殴りつける上官は、日本の国家主義の理不尽さを体現しており、明らかに「人の命を踏みにじる国家主義者」への憤りが、観客の心に宮部への共感を生み出しているのです。

 この映画が感動を呼び起こす理由は、人命を国家の犠牲にする事を何とも思わない「国家主義者の命令」よりも「人の命、家族を大切に思う心」の方が気高く美しいからです。この事に多くの観客・読者が気づき、自分の流した涙の意味はそこにあったのだと理解した時、この映画は「反戦映画」として高く評価され、「国家主義」への強い拒否の気持ちを育ててゆくだろうと信じています。