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ラストシーンが30年前の私につながった
同じタクシー運転手として

映画『タクシー運転手』

 私は東京のタクシー運転手である。タクシー運転手は、個人主義だ。誰も教えてくれないし、助けてもくれないし、収入はそれぞれの腕と経験と「運」だ。こうすれば稼げるというマニュアルがあってもアテにはならない。すべて自分次第。

 100,000ウォンの大金に目が眩んで、同業の危険な上客を横取りした主人公の、それが「運」だったのだろう。ソウルでこつこつと営業してたら、彼は生涯にわたり、闘う同胞の英雄的な生きざまを知ることもなく、自分以外の誰かや何かのために、自分が命を懸ける瞬間とも無縁だったに違いない。

 繰り返しになるが私は東京のタクシー運転手である。そして三十年前はいなかの学生だった。不自由のない暮らしをさせてもらい、日本は良い国になったと教えられ、欲求不満の正体もわからずにモヤモヤしていた。

 光州の労働者、学生のむごい現実をテレビの映像で見て、隣の国の若者たちの現実は自分とどんな関係があるのか悩み、関係のないことなのか悩んだ。深く悩んで、自分なりに選んだ実践に身を投じた。韓国民衆と心を同じくして自らも闘うことを希求した。あのとき見た画像が人生を変えた。広場に並ぶバスのバリケードと軍人に連行されていく市民、旗にくるまれた柩、泣き崩れる人々。

 あれから三十年。映画「タクシー運転手」のラストシーンが私の三十年前につながる。言葉にならないときに、おとなも涙があふれる。今日も自由でリスキーなタクシー運転手が、光州に行く客を待つだろう。装甲車の銃口が市民に向けられるときに。(中杉通・都内タクシー運転手)